昭和43年4月29日 朝の御理解        (末永信太郎)    №43-062



 御神訓に、わが子の可愛さを知りて神の氏子を守り下さることを悟れよ、とあります。わが子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ、と。ね。ここんところが、この知れよと仰らずに、悟れよと、こう仰るところが難しい。ね。ここんところが悟れますとね、お徳が受けられる。ね。
 人間はいよいよ、幸せになれる。あの世での、もう極楽往生間違いなし。ね。この世では尽きぬおかげが頂ける。なかなか、そこが分からん。私は今日のこの御神訓を頂いてですね、確かにそうだなと思うです。ね。自分が子供を持ってみて、ね、子供の可愛さを知ってみて、はあ、神様は、こういう心で私どものことを思っておって下さるんだな、と。実際を言うたら、親が子を思う思いの、千倍も万倍ものことでございましょうけれども、例えば、これは人間でも、ね、自分の子供を持ってみて、合点。
 だから、ここんところは、そんなら、独身者の方やらね、子供を持ったことのない者は分からんようにあるけど、そうじゃない。ね。ただ、親を持って合点せよということも言えるのである。ね。なら、絶対、それは例えば、親孝行の出けない子供であってもです、もう、親と名がつきゃです、ね、親がいっちょう苦労すりゃええが。ね。親が病気どんすりゃよかが、もう、親は早う死にゃよかがといったようなことを思う子供は、まずなかろうと思う。ね。
 ましてや、親が子を思う思いというのは、もう、言うなれば(千万無料)である。親が子を思う思いというものは、ね、いわば千万無料の思いで子供の上のことを思う。または、祈る。どうぞ幸せになってくれよ、と。しかも、中に屑の子がおれば、屑の子ほど可愛いのが親心。
 自分がおる間はいいけれど、もし、自分がおらなくなったら、この子はどうなるだろう。人並みに頭が良くない、人並みに器量が良うない、人並みにこういうような、いわゆる難儀を持っておると言うて、子であればあるほど、親の情というものは増すのです。それが、親心。ね。
 ですから、これは親になり、子になりして、その情感というものを知って、ね、神が氏子の上にかけて下さる思いというものを悟れよと、こう仰る。ね。ですから、ここが悟れたらです、今、私が申しますように、もう、絶対の幸せ、絶対のおかげ。ね。仏教的に言うならば、安楽往生間違いなし。
 この世では尽きぬおかげに恵まれる。ですから、ここんところを悟らせてもらうために、お互いが信心しておると言うてもいいくらいです。ね。そこで分からせて頂くことは、ね、確かに、親が子を思うときに、子が親を思う時に、そういう千万無料な思いを持って思うと、ここまでは分かるでしょうが、人間である以上。ところがそこが、ね、その千倍とも万倍ともつかんほどの思いで思うて下さる、神様のその心を悟るということは、もう大変な、やはり難しいことなんだ。
 そこで、どうでも分からせて頂かなければならないことなんですね。どうでも、精進しなければならないこと。ね。信心とは、ね、先ず、自らなる心への帰依である。言うなれば、自分の心がです、自分で拝めれるようになることなんです。そのけいこを一生懸命しなければ分からんのだ。ね。
 われとわが心が拝めれるけいこ。ね。そこに、本気で改まらせて頂くこと、磨かせて頂くことに、ね、自分の汚い心を見とったんじゃ拝めん。ところが、その改まって行く自分、変わって行く自分。ね。限りなく美しゅうなろうとすることへ精進するそういう心にです、まあ、何と私が変わったもんじゃなあ、ということになる。去年の私、今年の私。ね。同時に、自然の心、天地自然の心。ね。
 天地自然の心を読ませてもらう。ね。その天地自然の心を分からせて頂くことに勤めなければならん。ね。そこんところを、私は成り行きを大事にして行けと言う。ね。自然のは働きというものをです、柔順に素直に、それを実意丁寧に合掌して受けて行くようなけいこを本気でしなければならん。ね。天地自然の心というのは、そのまま、天地金乃神の心ということも言える。ね、親神様の心とも言える。
 だから、その親神様の働きそのものを大事にして行け。ね。その働きそのものをです、大事にして行く、簡単なことだけれども、ね、生身を持っております人間としてはです、そのことは、もうどんなに思うても出来ないようなことがある。痛いことがあったり、苦しいことがあったり、損になることがあったり、恥ずかしい思いをしたりすることがあるけれども、さあ、その自然の働きをです、本気で大事にする気になる。
 ね、それを黙って受けて行く気になる。それを神様の働きとして、そこのとこを実意丁寧に頂いて行こうとする、そういう精進。そういう精進をさせて頂いておる内に、天地の心を心としての、ね、神様の心がこちらへ通うて来る。天地の心が分かって来る。ね。自然の心が分かって来る。
 そういうことで、これは何かと言うと、いわゆる、親の心が分かって来るということ。ね。ただ、分かろう、分かろうと腕(こまづいて?)考えただけじゃ分からんのだ。そういう本気での修行に取り組ませて頂いて、初めて、ね、親の心が分かって来る。ね。よりて整う、天地のこと一切。ね。
 そういう信心修行させて頂くから、ね、天地間に起きて来る一切の事柄が、ね、そういう頂き方をする人の上に、天地の間の起きて来ることの中で出来ないことがない、一切が成就して行く。よりて整うて行くのである。ね。病気をしておる人は健康になって行くだろう。金銭に不如意な人は、経済に恵まれるだろう。ね。様々な願いという願いがです、一つひとつ整うて行く。
 天地間の天地の外にあることじゃない、天地内にあることなのだから。天地の心が心としての頂き方が出けるようになる、そういう精進させて頂くところに、天地のこと、天地間のこと、よりて整うて行くのである。ね。自らなる心が拝めれる、自らなる心に帰依をする。ね。天地の心というのは、そのまま天地の法則ということでもある。ね。そこのところを明らかにしておって下さったのが、金光大神だと思う、教祖の神様である。ね。そこのところの御教えを頂くことによって、私どもの限りない知恵が湧いて来る。ね。
 いわゆる、道理が分かって来る。だから、その道理に合うたせ生活が出けるようになる。なるほど、こういう道理に合わん生活。法則に従わない、法則を無視した生活で人間の幸せがあろうはずはないということが分かって来る。ね。第三に、いわゆる金光大神への帰依である。ね。そのこと全てを御取次下さる金光大神への帰依である。ね。それはそのまま、自分が取次を願う、先生への帰依である。
 いわゆる、親先生への帰依である。ね。そういう、私はここ(いちりゅうじつ?)申しております、その三つの事柄。ね、この事柄がです、ね、焦点でなからなければです、今日、私が言う、ね、神の氏子を守り下さることを悟ることが出けません。ね、今日、私はこう申しておりますですね。
 わが子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ、と。ね。私どもが子供のことを思う。千万無料の思いを持って思う。どうぞ子供が幸せになってくれよがしとしか思わん。子供がどうぞいっちょ不幸せになるようにと思う親は一人もいない。ここまでお互いが分かるのである。
 親がいっちょ難儀をすりゃ良いなという子供はおらん。ね。ようにです、親が子を思う思いは、ね、どうぞ子供の一人ひとりが幸せになってくれよ。中にも、屑の子がおれば、屑の子ほど可愛いのが親心。ここまでは分かる。けれども、これにも万倍も、もっとその上もの思いを持って下さる、氏子の上を思うておって下さる神様の心は分からない。しかし、この心が分かる時に、私どもの一切の幸せがある。一切が解決なのだ。これは、もう、あの世この世を通しての幸せなのだ。ね。
 そこから、一番難しい、言うなら、ね、生死の問題も解決する。いわゆる、素晴らしいそこの死生観ていうかね。生きても死んでも天と地はわが住処と思えよと仰る。たとえ死んだからと言うて、親神様の懐の中にあるんだ、かえるだけなのだということが分かる。神様が、あの世に行った時に、こなしなさるはずはない、苛めなさるはずはない。ね。
 このことを残してさえおけば、子孫はいよいよ、おかげが頂けれる繁盛する。これは余談ですけれども、昨日、親教会の御大祭に、薬院教会の(すげお)先生がお話になった。その中に、これは一つの、これは法則だ。例えば、鉄砲の弾が上にこう、撃ち上げられる。撃ち上げられるとね、あるところまで上がったらね、そっからはこう、急転直下落ちるより他にしかたがない。ね。
 ポーンと撃ち上げられる。上がるところまで上がったらです、ね、それからは、もう、落ちるより他にはない。栄枯盛衰世の習い、これは、もう絶対の法則なん。ところがね、金光大神の道はそうじゃない。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代。金光大神が言うたことを疑わぬように、ね、信心さえして行けばですね、もう、絶対の道が開けて来る。これは、もう、限りがないというほどに、天地の働きというか、おかげというのは、もう限りがないのである。
 だから、限りないものを求めて行くのですから、限りなくおかげが撃ち上げられて行くに間違いないでしょうが。ね。これは信心を抜きにした話なんだ。天地の道理がわからない人の話なの。ね。金光大神は、金光大神の言うたことを違わぬように信心しても、途中で落ちることがあるとなんか教えてござらん。ね。
 そこに、私は最近言うております、自己を肯定しないでの生き方というものが大事だということなの。ね。このおかげを頂くためには、もう、これで済んだとは思わない。もう、どれだけ分かっても分かっても、どれだけ尽くしても尽くしても、これで済んだとは思わないという頂き方。ね。もう、これだけのことをしよるけんといったような中には、確かにそこまでしか上がらんでしょう。
 けん、これじゃ済んだとは思わないという頂き方は、もう限りがないのです、おかげは、おかげの延長というのは。ね。金光大神はそういう素晴らしい、私は道を私どもに示しておって下さる。ね、そういうおかげを私どもは、もう、限りなく目指して行く。ね。教祖様のその教典をですね、分からせて頂けば頂くほど、もう、どれだけ、たった百何十ヶ条だから、ね、これを暗記してしまうだけなら、それこそ一ヶ月もかからんで暗記してしまうだろう。けれども、その内容たるや、もう、これは限りがない。
 その限りないものに取り組んで行く。だから、おかげも限りないおかげになって来るのですよね。皆さん、どうでも一つ、ここんところをですね、本気で悟らせてもらわにゃいけませんよ。わが子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ、と。話を聞けば、すぐ分かるとですよ、分かるだけなら、知るだけなら。けれども、悟れるということは、ね、今私が申しますようにです、本気でわれとわが心が拝めれるようになる、わが心に帰依が出けれる。教祖の教えて下さっておるその御教えに帰依し奉る。
 いよいよ、御取次を願う金光大神、ね、言うなら、お手代わりである親先生の信心に帰依する。そういうことに一生懸命、いわゆる、それが焦点でなからなければならない、信心の。おかげを受けねばならんということが焦点であってはならない。これが焦点でなからなければならない。
 でないと、これほど信心するのに、どうしてこのようなことが、ということになって来る。ね。ここが一番大事なところ。ね。昨日、福岡の高梁さんが一日、朝からご用頂いて、御大祭をおかげを頂いて、夕べ遅うまでご用を頂いて帰られた。家ではお寿司屋さんですから、昨日はあの、(かせいかえんの?)あちらの方から沢山のお弁当が、八百からの注文が来ておった。ほれで、その向こうの注文通りに出された。
 ところが、ちょうど帰って来られたら、福岡の方から電話がかかって来た。はじめの間は二百てなったけども、よく調べたところが、350から余った。たった八百のお弁当を作ってから、350も返ったら、いくら寿司が儲かったって、とてもこれは、ね、もう、儲かるはずはないです。儲かるどころじゃない、もう、大変な損だろうと、こう思う。
 皆さんはご承知のように、あれだけ実意丁寧に、あれだけ行き届いた、あれだけのご用が出けて、どうしてそのようなことであろうか、と思うでしょうが。だから、信心しよりゃ、ね、親先生の仰る通りにしとれば儲かるということじゃないのですよ。だから、そういう考え方を一応捨ててです、昨日今日、私が言うております、その三つの事柄に取り組んでおかなければです、ね、神様が私どもの上のことを、ね、親が子を思うような思い、もう、それよりも、もっともっとでしょうけれども、そういう千万無料の思いで私どものことを思うておって下さるということが分からん。
 これが分かったら、問題じゃないのである。神様が、氏子が損すりゃよかがと思うてから、そげな損をさせござるとじゃない。二百、三百の弁当代のことじゃないて。ね。私はそのことを昨夜お願いさせてもらいよったらね、ここに私は書いた。こういう字を頂いた、楽という字ですよね。合楽の楽という字。
 この楽という字を、真中のこの白という字を大きく頂くんですよ、白という字を。ほれで、横にこう、糸偏がこうついて、そりゃ小さく頂いて、木を当たり前にこう頂く。はあ、本当に頂かにゃ分からん。そこに悟りらしい悟り、本当の悟りじゃないけれども、はあ、ほんにそうであろうと私が思うのである。ね。
 白ということは、無ということである。赤でもなからなければ青でもない。いわば、ね、何もないことにしようということには、どういうことになるですか、白紙にしようと言うでしょうが。ね。例えばね、商売が繁盛したとか、損をしたとかといったようなことは問題じゃないという心をです、本気で高橋さんはけいこをしてるけいこ中なのだ。ね。下の木というのは、木は心という字。
 そういう心を、ね、白の下に木が書いてある。そういう、どのような場合でもです、ね、右になろうが左になろうが、それをおかげと分からせて頂くけいこをしておるのだ。な。信心しよりゃ、右になりますように、とこう言うけれども。ね、左になりますようにと、こう願うけれども、願うて取次を頂いたらです、もう、親先生に任せにゃいかん。だから、親先生に帰依をしなければいけない、金光大神への帰依が必要だというのは、それなんだ。ね。
 御取次を願うたが最後はです、ね、痛ければやはり痛うございますと、楽にして下さいと言うて、やっぱ願う。ね、金がなからにゃ金のおくり合わせを願う。けれども、願うたが最後、金光大神へお預けする、親先生にお預けするのだ。ね。いわゆる、お任せをするのだ。だから、親先生に帰依がなからなければお任せは出来ないでしょうが。ね。
 この、いわば、いつも白紙というか、そういう、どのような場合でも神様のお働きに間違いないと思えれる、この白の心というものを、ね、白の木です。白の心をまず作る。そこに、糸偏が伴って、そこに神様との糸の繋がりというものが生まれてくる。糸というのは、繋がりということである。
 ね、そこに、本当の楽というおかげが受けられるのである。私どもが右でもよい、左でもよい。もう、これだけ一生懸命の精進をさせて頂いてからのことであるから、右左はもう貴方にお任せするという心になった時に、私どもの心に開けて来る心が楽な心なのである。そういう心を極楽と言うのです。
 ね、こういう心になれた時です、さっき、ここで私が申しました。よりて天地のこと一切が整うて来るのである。これはもう、あの世この世を通してからなんだ。ね。だから、この心を目指してのお互い信心なんだ。なるほど、350の弁当が損になったというようなことは、問題じゃないことになって来る。
 そりゃあ、合楽参ってみなさい、もう、商売も繁盛することは間違いない。そりゃ、もう絶対間違いない。けれども、本当の繁盛の過程としては、場合によっては損になることもあるということ。信心しよって、どうしてこのようなことが、と思わねばならんようなこともあるということ。なぜ、この白の木をけいこしておる。ね。そこでです、ね、本当に一つ、われとわが心が拝めれるような本気でのけいこ。
 本気で教えを頂いて、その教えの深さ広さに触れて行って、ね、神の叡智に触れて行く、と。次に金光大神への帰依である。ね。そこんところの三つが信心の焦点である。ね。そこに、私は信心の喜びも楽しみもある、と。ね。そういう生き方になる時に信心の喜びが必ず与えられる。ね。そういうことになって来る時にです、ね、そういう信心が分かって行く。いわゆる、けいこが積んで行くその楽しみが生まれて来る。
 どうでしょうか、おかげだけが楽しみで参って来て、なら、おかげが自分の思うようにおかげ頂きゃ有り難いこっじゃ。そんな訳には(とおや?)が下ろさんのだ。それは、神様であればあるほどに、親神様であれば親神様であるほどに、言いなり放題のおかげを下さるはずがない。そうでしょうが。
 子供がおやつをくれち、はいはいと言うてから、限りなしやる親はないでしょう。はあ、今食べたろうが。まだ、もらって何時間しかならんよ。例えば、あってもやらんのが親心でしょうが。昨夜、私はもう久しぶりで、文楽座からの中継の文楽を、テレビで夕べ遅うに見せて頂いた。もう、休みよった、寝巻きがかえて、もう、休もうとした。したら家内が、ちょっとちょっと呼びに来ましたから、行ったらその、私が浄瑠璃が好きなもんですから、その浄瑠璃が、良い浄瑠璃があってるちゅう訳なんです。
 二十四孝があっておった。いわゆる、竹の子堀りです。ね。裏の竹薮に入って、竹の子を掘る。親が竹の子が食べたいと言う。それこそ、この寒中に竹の子のあろうはずはないのだけれど、親に孝行する心でやればです、天の与えであるかも知れんと言うのである。
 ね、この寒中に竹の子のあろうはずはないのだ。けれども、親様が竹の子が欲しいと言われるのだから、ね、と、その竹薮に下り立っていく。なるほど、そこには竹の子はなかった。竹の子はなかったけれども、竹の子以上な物、自分が日頃願い続け、求め続けておる物がそこには生けてあったと、こう言うのである。
 親の心はそれなんだ、神様の心はそれなんだ。ね。350の例えば弁当の損ぐらいなこっじゃないて。ね。その向こうに、ね、神様が願われるものを、氏子の願うもの。ね。いわゆる、神様の願いと氏子の願いが一致するような願いの成就が、その向こうにあるのである。ね。この寒中に竹の子があるもんか。いくら親でも、あまりにひどいと言うたんでは、そこのおかげは受けられないことが分かるでしょう。ね。
 だから、そこんところが金光大神への帰依がなからなければ出けることじゃないと言うのである。親先生が右と仰るから、場合には泣く泣くでも右にする。こげんすりゃ損だと分かっとるけども、親先生が左と仰るから左にする。金光大神への帰依、親先生への帰依がなからなければ、それが出来ないのである。
 ね、そこに金光大神の教導があるのだ。そこに、親先生の教導の難しさがあるのだ。これが言う通りにしてやりゃ、もう、喜ぶことは分かってるんだけれど。さあ、そこに出けないところに教導の難しさがある。そして、結論として何かと言うとですね、神が私どもの上をです、私どもが子供のことを思うように、ね、私どもの上のことを天地の親神様は、それこそ、千万無料の思いで、一人ひとりの氏子の上に、どうぞ、信心しておかげを受けてくれよという願いがかけられておるんだ。
 信心して、商売繁盛をしてくれ、信心して病気が治って来るだけじゃなくて、その病気を通して、その様々な問題を通してです、親の心を分かってくれよというのが、神様の願いなのだ。ね。だから、その願いというものはです、今、ここにはっきり示しておられますように、子供を持って合点せよと仰るけれど。なら、知ることは出ける、分かることは出ける。ははあ、神様っちゃそげなもんばいなあ、ということは話を聞けば分かる。けれども、なら実感としてです、ね、私どもが子供を思うような思いで、神様は思うて下さるということは分からんのである。
 そこで、ね、本気で教えを行ずる以外にはないのである。いよいよ、本気で教えの深さに触れて行く以外にはないのであり、いよいよ、自分と自分の心が拝めれるようなけいこを本気でする以外にはないのである。いよいよ、親先生の信心を検討にも検討を加えて、親先生を信じきらせてもらう。親先生への帰依というものが必要であるかということが分かる。ね。御教えは、たったこんなに簡単なですね、わが子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ、と仰る。
 悟れというところが難しい。その悟れるために、今、私が申します三つのそういうことに焦点を置いて信をしよらんと、悟れない、翻然としたものになって来ない。例えば、ね、叩かれて痛い思いをするけれども、憎うて叩きよんなさるとじゃないちゅうことが分かるから、痛いけれども有り難いという心が生まれて来る。ね。有り難いという心が生まれて来りゃあ、もう幸せでしょうが人間。ね。
 それを楽と言うのである。ね。教祖が教えて下さるのは、たったそれだけのこと。ね、今日の御理解で。わが子を持ってみて、神の氏子を守りおり下さることを悟れよと仰る。それを悟らせて頂くために、お互い本気で信心をさせてもらわなければ、悟れんのである。
 それが翻然として来る時に、なるほど、詫びれば許してやりたいのが親心じゃなあ、ということが分かる。人間生身のことであるから、どういう風に行きよっても、どこにお粗末ご無礼が出来るやら分からんのだけれど、親と子ほどしの繋がりが出けるところに、ね、すいませんと言やあ、もう、詫びれば許してやりたいのが親心なんだから。ね。ですから、厳密に言うとです、その親心が悟れなければ、詫びというものは、本当を言うたら値打ちがないということが分かる。
 そこで、御取次を頂いて、そこを悟ってござる親先生、そこを悟ってござる金光大神の御取次を頂いて、お詫びをしてもらわなければならない、お願いをしてもらわなければならない、お礼を申してもらわなければならないということが、皆さん、お分かりになるでしょう。どうぞ。